毒婦、修羅の過去

毒婦の過去。

毒親と毒婦 ここで一つ。

ここで少しブレイクタイム。

 

私がなぜ友人に「それってもしかして毒親じゃない?」と言われた経緯についてだ。

 

友人に「あなたの親は毒親なんじゃないか?」と言われない限り、私は毒親の本を買う事もなかったし、恐らく自分の母親との関係が原因で自分の性格・人格が形成されただなんて思ってもいなかった。

 

まず、私が母親にたいして「いい子でいなければならない」と思い続けた内容。

 

まず仕事。

就職先は誰に言っても恥ずかしくないところであり、職種も福祉関係という仕事だった。

母は私がこういったところに就職できた事をたいそう喜び、私をとても評価してくれた。

しかし、この仕事を始めてから何度も挫折する事があり(人間関係で精神崩壊)長期に渡る病欠休暇を3度取り、3度目にようやく退職を選んだ。

私は何度も潰れて行く自分に「もう仕事辞めようよ」と言ってやった。

しかし、ここで私の妙な行動が始まる。

 

母親に相談する、である。

 

あんなに嫌っていた母親とも、住まいを別々にする事で関係性が良くなっていたのもある。

私にとっての最大のストレスがなくなったから母に対して寛容になれた事。

日常の家事を自分で行う事で、母親の存在のありがたさに気づく。

自分で稼いで自分で生活していくのは決して楽ではない。など。

両親に対して、感謝する気持ちが大きくなっていたので母親との関係も良好になったのだ。

 

そして、仕事を辞めたいと思った時に母に泣きながら電話すると。

「もったいない」「もうちょっと頑張れないの?」

「辞めて他になんの仕事するの?」「せっかく就職できたのに」

「いい仕事なのに」

そう言われて、私はどこかで「母親に認められたい」「いい子でいなければならない」と思っていたからだろう。

 

結局挫折するたびに母に「許可を得る」相談をし、言いくるめられ結局仕事を辞められずにいた。

 

なんと表現したらいいのだろう。

何せ「親の言うとおりにしていれば間違いない」が湾曲して私の中に存在していたのだと思う。

親の言うとおり、年配車の言うとおりにしておけば間違いない=間違いないのではなく、ただ機嫌を取っているだけ、いい子にしていなければならないと思っているだけ=従う事で認めてもらえると思っている

まぁこんな感じだ。

 

結局私は、3度目の精神崩壊で仕事を辞めたのだが。

その時は親には何の相談もなく退職届を出した。

元夫とのブログを見ての通り、当時は夫が「辞めていいよ」と言ったからだ。

当時、精神崩壊して頼れるのはもう夫しかいなかったし、既に自分の親が毒親だと認識していたから、どうせ「辞めるなんてもったいない」などわけのわからない事を言われ

「どこの職場に行ってもあわない人はいる」という根性論を叩き付けられるとわかっていたからである。

もうあの時の私に、根性論など通じないほど精神は崩壊していたから辞めてよかったと思っている。

 

ただ、これ、後に「辞めた」という話をした時に母親に言われた事は。

 

「あんた、年金どうすんの?」である。

 

私が年金をもらう頃、母親は生きてるか死んでるかどっちかだろう?

まさか私の年金まで心配干渉されるとは…と愕然としたのを覚えている。

 

その後もネチネチと仕事を辞めた事は責められた。

 

・母親に許可を得る事、が普通だった私の妙な行動

友達と遊びに行って来る、食事に行って来る

大学はここに行こうと思う、アルバイトはここでもいい?

なんでもかんでも、母親に許可を得ていた私は、はたからみたら

「あら仲良しな親子ね」にも見えたかもしれない。

 

違う、機嫌を伺っているだけだ。

 

遠い親戚のお姉さんの結婚式があった時。

着ていく洋服をどうしていいかわからず、私は母親に相談した。

もう20代も半ばだと言うのに、結婚式に行く洋服を母親と買いに行った。

全ては母親が決めた。

兄の結婚式の時もそうだった。

私は自分で決められなかった。

失礼があってなはらない、何を着ていけばいいのかわからない。

その時も母親と買いに行った。

 

ことあるごとに、母に報告、連絡、相談だ。ほうれん草だ。

自分では何もできないのである。

いや、やろうと思ったらできるのだろうけど、常に母親の「許可」を得ていた。

私にとってこれは「不自然」な事ではなかった。

みんなそうなんだろう、くらいに思っていた。

 

だが、これらの話をした時に友人に言われたのだ。

 

「それっておかしくない?」と。

 

なんでそんなに母親の機嫌取ってるの?

昔、虐待でもされてたの?

 

そんな事を言われたのだ。

 

虐待…

 

確かに、悪いことをしてぶん殴られたり。

喫煙していたのがバレてフルボッコにされた事もある。

嘘をついて友人宅に遊びに行って男と遊んでいた方がバレた時もフルボッコにされ外出禁止を食らった。

 

でもまぁそんな事は当然といったらおかしいかもしれないが、自分が悪いことをしたのだから仕方がないことだと思っている。

 

ただ、気になったことを話した。

 

小さかった頃、自分は兄より可愛がられていた時期があった。

だが、それによって兄の体調やメンタルが不安定になってからは兄優先なところが出てきた。

 

それ以降は兄優先が目立つようになって、なんで私ばっかり?!と思うことが増えていった話をした。

 

そこで友人に「毒になる親」の本をすすめられた、のである。

毒親と毒婦 もう耐えきれない

大学に進学すれば、兄と同じように。

当たり前に門限などなくなり、楽しいカレッジライフ()が待っていると期待していた。

 

しかし、母親からの束縛は大学への進学後も止む事はなかった。

 

夜、友人と食事に行くと言えば「22時までには帰って来なさい」と言われ。

 

私は、母親の機嫌が悪くなる事をその頃は「恐れて」いた。

そして「そうされる事が面倒くさい」とも思っていた。

 

22時までに帰ってこい、と言われればギリギリの22時ではなくあえて21時くらいに帰っていた。

「思ったよりも早いじゃない」と思わせれば母親も機嫌が悪くならないからだ。

 

この頃からアルバイトを変えた。

テレホンアポインターだった。

時給は確実に手に入るが最低賃金でアポが取れたらボーナスが貰えるシステム。

私はこのアルバイトがどうやら向いていたのか、そこの支店長から私にだけ豚まんを貰えるほどの好成績だった。(豚まんかよ)

 

当時18歳で私が手にした月のアルバイト代は20万を超えた。

ホイホイアポを取って、営業成績グラフはぶっちぎりNO.1だった。

私がこういった成績NO.1を取り続けるという快挙をなしたのはこのテレアポのみだ。

風俗?すいません、即姫度高めでしたwwww

 

私はふと思った。

 

「これ、お金貯めて家、出ればいんじゃね?」

 

一人暮らしをしようと考えた。

私はとにかくバイトに明け暮れお金を貯めた。

 

そして就職が決まり。

私は大学を卒業とともに私は一人暮らしをする事にした。

自分で物件を探し、自分の身の丈にあったマンションを探した。

賃貸住宅を契約するにあたって「保証人」が必要という壁に打ち当たる。

 

黙って家を出るつもりもなかったので、親に一人暮らしをしたいという話をした。

父親は「いいんやない?」だったが母親は猛烈に反対した。

 

反対の理由はなんだ?と言ってもこれといって的確な答えは返って来ない。

 

なんで一人暮らしするの?

そんなにこの家がイヤなの?

親に反抗してるの?

一人暮らしして好き勝手やりたいってことなの?

 

挙げ句は「縁を切ってから出て行け」とまで言う始末。

 

私は単に、この束縛生活から抜け出したいの一心だったが、なかなかうまくはいかなかった。

 

父親に直接話をし、保証人になって欲しいと頼んだ。

ようやく話は進んで行ったが、母親の反対は尚続いた。

 

最終的に家を決めてしまえばこっちのものだと思い、契約をすすめていった。

母にとっては些細な事すら「私への反抗か?」とふっかけてきたが。

私なりに母親に機嫌を伺い、顔を立てながら生きて来たつもりだった。

 

これは、私の初めての反抗だった、とも思う。

 

私は自分の荷物をまとめて新居にへと引っ越しをした。

 

22歳、春だった。

 

 

毒親と毒婦 さぼりにピアス

進学は決まっていたので残された高校生活は本当にダラダラ過ごした。

 

初めての「クラブ」を体験してから、私は麻薬の虜になったかのように。

頃合いを見計らっては親に「友達の家に泊まりに行く」と言って。

怪しまれないペースで友人とクラブに遊びに行った。

 

時には、友人がお膳立ててくれたコンパにも行った。

 

コンパに行き、2次会のカラオケで「王様ゲーム」というものが始まり。

意味がわからず適当にくじを引いて、ゲームをしながらルールを覚えた。

その王様が出すお題が次第にエスカレートしていって、

3番と4番がキスーーーーー!とか言い出した時は腰抜かすかと思った。

 

幸い、当時部活の男子とおつきあいしていた私は、キスと手マン(下品きつい)あたりまでは経験済みだったため、知らぬ男とファーストキスというのは回避できた。

だが、今日初めましてのよその高校の男子生徒とキスをするとか、本当に腰抜かすレベルだった。

 

友人達はこんな高校生活を送っていたのかと思ったら強烈羨ましくて。

なんかもう自分だけぽつーん取り残されてる感が半端なかったです。

 

 

年が明けて3学期になった頃には、学校への出席日数を何日クリアすれば留年しなくて済むかを計算し。

みんなで朝の朝礼だけ出て、そのまま学校を出て。

繁華街に遊びに行く、というサボリーヌ生活を送りました。

 

高校3年生を終える頃には、部活仲間の男子とも別れ、コンパ活動に明け暮れ。

それでもきっちり門限は守り、親に怪しまれないように。

 

そしてある日、友人がピアスを開けたんですね。

ピアッサーすね、流行りました。今もありますよね?

名前はピアッサーなのかな、今でも。

 

私もみんなと一緒にピアッサーで憧れのピアスをあけました。

大人の階段のぼった感を実感。

親にばれないよう髪の毛で隠し、透明のプラスチック製のピアスをつけました。

 

そして、その頃からアルバイトを始めました。

近所のスーパーでのレジ打ちです。

それなら親の目の届く範囲だからと親にも承諾を得て()

 

お小遣いだけでは足りない、学校から帰ったらダッシュでバイトをし。

バイトに限り門限は大幅に遅くでもOKでしたが、毎回親が迎えに来るのはさすがに恥ずかしかったですね。

 

 

そしてある日ですよ。

 

学校に行く(ふり)をして朝ご飯を食べていた時。

母親に髪の毛引っ張られたんですね。

 

ひぃ!と思った瞬間、耳を引っ張られ。

 

「親に対する反抗か!?」と叫ばれました。

 

私は黙ったまま、俯いていた。

 

「もう勝手にしたらいいわ」と言われ。

 

正直、もう高校も卒業するし、その先の進学も決まっているし。

もう勝手にさせてくれ、兄ちゃんだけ自由気侭な大学生活送って、なんで私だけこんな束縛されなきゃならないの!?

と思ったので「もういい加減、私の事構うのやめて欲しい」と言ったら。

 

朝っぱらからグーパン入れられて、髪の毛掴んではり倒されて。

10発くらい蹴り入れられて。

 

鼻血出して、口から血垂らしながら学校行きました(朝礼だけやけど)

 

 

この頃から私の反抗的な態度が表に出るようになり。

母親は母親で「口で言ってわからないなら、力で」と方向転換してきました。

 

ピアスがばれてグーパン事件が起きてから。

私の反抗的な態度も拍車がかかり、母親が言ったように

行動で親に反抗する、という行動に出て行く事が増えていきました。

 

次第に私は「親から解放されたい」「自由になりたい」

いろんな世界を知った私は、とにかくこの親からの束縛から自由になりたい。

そればかり考えるようになりました。

 

かといって、それを実現するにはなかなかの道のりで。

進学が決まっており、これも親のお金で通わせてもらう以上。

この束縛も、育ててもらっている事への感謝の気持ちも忘れてはならない。

こうして親によくしてもらっている事に対して、歯向かってはならない。

 

そう思う気持ちもあり、複雑でした。

 

歯向かえば歯向かうほど、当然母親はブチ切れますし。

 

私は、いい子でいなければならない。

いい子でいれば、母親は怒ったり殴ったりしない、とも思ったり。

 

とにかく自分で自由になりたい反面、それはあまりにも贅沢な言い分なのかなと。

自分の気持ちをどう表現し、どう伝え、どう理解してもらっていいのかもわからず。

 

だんだんと遊びの事よりも、自分を抑え込む方向に向かって行き。

これから進学して大学に行くとなったら、真面目にならなければ…。

 

と、私の頭の中は、あっち行き、こっち行き。

 

だんだんと自分を抑え込む事の方が多くなっていき。

そうなると母親がブチ切れる事もなくなり。

 

ブチ切れられる事に疲れた自分は、また「いい子でいなければ、いい子でいれば波風も立たない」そう思うようになっていきました。

 

そうして私は高校を卒業し。

 

大学に進学する事になり。

高校時代の友人達とは別々の道を歩むようになり。

 

そして私は、また束縛の日々へと戻って行った。

 

 

毒親と毒婦 高校3年生

兄は大学へ進学した。

 

私は高校3年生まで部活に明け暮れる日々だった。

ギリギリで合格して入学した高校、とてもじゃないけどクラブに勉強なんて両立できるキャラではなかったので勉強の成績はかなり下だった。

 

部活を引退してから、本来ならば大学受験で勉強に必死にならなければならないのだが。

私には強力な助っ人、クラブ活動での成績があったのでそのへんは安泰だった。

 

進路が既に決まっている状態だったので、高校3年でクラブを引退してからはますます学校での勉強などしなくなった。

 

仲良しの友人達は皆帰宅部だった。

当時大流行したポケベル。

みんな持っていたが、私なんか絶対親が許す訳がないwと思い指を咥えてポケベルいいなーと思っていた。

 

そんな時友人が「私が2つ借りる事にして、1個持つ?」と。

人生初の「名義貸し」を誘われた。

自分のお小遣いの中から支払いしてでも、喉から手が出るほど欲しかったポケベル。

友人にお願いして名義貸しという手法で私はポケベルを手に入れた。

 

親に見つからないよう、自宅近くになったら電源を切り。

ベッドの下に隠した。

 

帰宅部3年の友人達は、私が部活に明け暮れていた3年間と全く違った生活をしていてとても羨ましかった。

 

○○高校の男子とコンパ、○○高校のなんやら君クソかっこええwみたいな。

話を聞いていてもさっぱりわからないし、輪の中に入りきれない感じといい。

私にとって、友人達の話は異世界だったし、すごく憧れた。

 

友人達が「今週土曜日どこのクラブ行く?」という話を学食でしていた時も。

クラブってなんぞ、と思っていた。

夜に出かける話をしていたので、当然ながら私には無縁の話だな…と諦めていた。

 

だが、みんなの言うクラブ遊び、コンパ、よその高校の男子との交流とか。

めちゃくちゃ羨ましくて。

行きたくて、行きたくて。

 

私は「どうやったらそういった世界に足を踏み込めるか」と考えた。

 

「友達の家に泊まりに行く」戦法。

 

部活をしていた頃も、部活仲間の家に泊まりに行く事はよくあった。

だが、母親は疑っていたのだろう。

泊まりに行くと必ず19時くらいにその泊まりに行った先の友人の家に電話をかけてくる。

「うちの娘がお邪魔させて頂きまして」とお礼の電話に見せかけて「ちょっと娘に代わってもらっていいですか?」と。

まぁ、その泊まりに行った先の親まで疑うかwのレベル。

 

友達の家に泊まりに行く作戦をしたとて、親から連絡が入る…

と、友人にその事を相談したところ

「そんなもん簡単やん、19時くらいに電話があるんやろ?

なんぼなんでも20時過ぎて電話とかかけてこやんやろ。

そっから出かけたらええやん。」

 

友人のその返答が神からの授かり物だと思うほど、友人に後光がさしているようにも見えた。

 

 

そして、私は早速母親に友人の家に泊まりに行く許可を取った。

相手が部活仲間じゃない事を怪しく思っているのはすぐわかった。

その友人の自宅電話番号を教えろ、と言われたのは想定内。

友人の自宅電話番号をメモに書き、カレンダーの泊まりに行く日のところに貼付けた。

 

いつでも電話してこいよ、と宣戦布告の意味をこめて貼付けてやった。

 

当日の夜、案の定19時過ぎに電話がかかってきた。

理解あるその友人の母は「大変やね〜うちが放任主義過ぎるんかな?」なんて笑っていた。

私は「すごく羨ましいです」と言った。

そしてその友人のお母さんに何度もありがとうございますと言ったのを覚えている。

 

洋服を着替え、普段した事もなかった化粧道具を友人に借り。

友人が私に化粧を教えてくれた。

 

初めてのビューラー、初めてのファンデーション、初めてのマスカラ。

 

友人はこなれた手つきでアイラインを引き、マスカラを塗ってアイシャドウを塗った。

すごく、すごく羨ましかった。

 

そして、もう日も暮れて真っ暗な夜の中。

友人宅から外に出た。

 

感動した。

ものすごい開放感だった。

友達は、週末こんな時間を過ごしていたのかと。

こんなワクワクどきどき感たら、はんぱねぇwwwと浮き足立った。

 

繁華街に向かう途中、フェイントでまた電話がかかってきているんじゃないかと不安になったが。

21時を過ぎた頃にはさすがに「もうかかってこないだろう」と安堵しはじめてからは、もう浮かれた、相当浮かれた。

 

友人は私の知らない「クラブ」に連れて行ってくれた。

全くシステムがわからないので、友人にアドバイスされるまま。

手に見えないインクのはんこを押されて、ブラックライトというものを知った。

小さなチケットを渡されて、入場料を払えば1杯の飲み物が付く。

ワンドリンク制」という制度を初めて知った。

 

ドアを開けると、鼓膜が倒れるんじゃいかと思うほどの爆音が聞こえた。

友人が何か喋っているけれど、ただ口がぱくぱくしているだけで何を言っているのかなんて聞こえなかった。

 

私の知らない世界が目の前に広がった。

暗い中でコップ片手に踊る人達。

DJブース、いちゃいちゃしながら踊る外国人カップル。

初めての経験だった私に見えたその世界は「犯罪犯してる」感がはんぱなかった。

 

友人は私の手を引っ張り、ドリンクカウンターに連れて行ってくれた。

耳元で大きな声で「なーにーのーむーーー!?」と。

私は「うーろんちゃーーー!」と叫んだ。

小さなチケットを出すと、ピアスだらけのお兄さんがウーロン茶を出してくれた。

友人は「もすこみゅーーるーーーー!」と叫んだ。(もう時効だから許してください)

 

なぬ!?いいい、飲酒するんですかお酒飲めるんですかなんなんだこの世界は!!!

(当時は今みたいに年齢確認とか緩かったんですね、はい)

 

お化粧して、意味のわからないお酒を飲んでいる友人がすごくかっこよく見えた。

 

どうやって踊っていいかもわからず、見よう見まねで踊った。

何がなんだかさっぱりわからず、何が楽しいのかもよくわからなかったが。

クラブという自分の中では「禁断の場所」にいる事。

少しの罪悪感と大きな開放感。

聞いた事もない曲を聴きながら、友人とただ笑いながら踊った。

 

見知らぬ男性に声を掛けられるのをサラッとあしらう友人。

何もかもが見た事のない世界だった。

 

 

当時の言葉で言う「はじける」だ。

 

友人は「せっかくなんやからあんたもはじけーや!」と。

時計を何度も見ては「これは夢じゃない!」と。

0時を過ぎ、1時、2時になっても外にいる自分に実感がまだ持てなかった。

 

その後、友人と朝までやっていたファーストフード店でおしゃべりして。

始発のバスで友人宅に帰った。

 

友人は「もう無理眠いから寝るー!」と寝てしまったが。

私は興奮冷め止まず、完全に覚醒してしまい。

母親に怪しまれないよう、お昼過ぎくらいに帰宅した。

 

帰宅するまでは半端なくドキドキした。

ばれているんじゃなかろうかと、怒られるんじゃないかと。

 

帰宅して母親に「ただいま」と言ったら

「あら、思ったより早く帰ってきたんやね」と言われ、気が抜けた。

 

それでも、ぐぅーすか昼寝して夕方まで爆睡したら怪しまれると思い。

必死のパッチで夕飯まで起きて頑張った。

夕飯を食べてフラフラになりながらお風呂に入り。

ベッドの中に入って、もう眠くて眠くて仕方がないのに。

 

昨日の夜から今朝までの事をずっとぐるぐる考えていた。

 

その日から、私の中で何かが「はじけた」

毒親と毒婦 高校生の頃

私が高校1年になった時、兄は高校3年生。

 

高校生活はお弁当だった。

 

私の仲良しの友人達は、家庭がシングルマザーの子が多かった。

お母さんが働いている子ばっかりだった。

高校生になってから「働くお母さん」という存在を知ったとっても過言ではない。

 

うちの母親は専業主婦で、それが当たり前で子供の頃から育ってきた。

お母さんが働いているって大変だなぁ…と漠然としか考えが浮かばなかった。

 

専業主婦の母親が毎日持たせてくれたお弁当を友人達はいつも

「羨ましい」「美味しそう」と言ってくれた。

私にとっては当たり前の事でも、友人にとっては当たり前じゃないんだなと感じる事も多かった。

 

たまたま、友人の家に遊びに行った時。

「お腹空いたね、なんか食べる?」と言われて。

私は「どっちでもええよ」と返した。

 

友人は「今日母さん帰ってくるの遅いし…」

「今日晩ご飯何食べよー」

と、冷蔵庫や冷凍庫を覗き込んでいた。

 

私は思わず「え?夕飯、ないの?」と聞いた。

世間知らずとは恐ろしいものだ。

 

「いつも母さん仕事から帰ってくるの遅いから

適当にあるもの食べてるよ」と冷凍の唐揚げをレンジに入れて加熱しはじめた姿を見て正直驚いた。

夕飯を自分で用意している…だと!?と。

専業主婦のキラキラオカンがいる我が家で十数年育った私にとって衝撃的だった。

 

友人は言った。

「毒婦ちゃんところはいいよね〜お母さん家におるやん?

帰ったら晩ご飯もあるんやろし、お弁当かて毎日作ってくれるやん。

私なんか毎日学食やし、夕飯も適当やしほったらかしやわ(笑)」と。

 

あまりの世間知らずに自分が恥ずかしくなった。

 

毎日弁当を持たされて、たまには学食でうどんとか食べてみたかったのに。

「学食でご飯食べてみたいからお金ちょうだい」と言ったら

母はブチ切れて「私が作った弁当が気に入らないのか!」と言われた事があった。

 

私は自分の親に「感謝しなければならない」そう思った。

毎日毎日お弁当を作ってくれる母に感謝の気持ちを持たなければならない。

そう思った。

お弁当だけに限らず、家の事をしてくれ、自分を育ててくれている親に感謝しなければならない、私は贅沢者だ、世間を知らなさ過ぎる、そう自分を振り返った。

 

だが、高校時代も母親との仲はあまりよくなかった。

心の中で親に対する感謝の気持ちを持ちながらも。

 

小学生のパン事件あたりから、兄ばかり贔屓目で見る母親を好きになれなかった。

 

学校から帰ると、母は兄の鞄から空になった弁当箱を出していた。

だが、私の弁当箱は出さない。

「女の子なんだから自分の弁当箱くらい自分で出しなさい!」

夕飯の片付けまでに間に合わなかったら「自分で洗え」そう言われるのはいい。

むしろ、夕飯の片付けまでに間に合ったら洗ってまでくれてありがとうだ。

 

だが、私はずっとずっと引っかかっていた。

 

なぜ、兄の弁当箱だけは鞄から出してもらえるのだろうと。

なぜ、その時私に一言「お弁当箱出しなさいよ」と言ってくれないのだろう。

人間誰だって、つい忘れる事くらいあるだろう?

 

体育祭や文化祭の打ち上げ。

兄はよく、その打ち上げに行って帰宅が23時を過ぎる事も0時過ぎる事もあった。

「終わった後打ち上げがある」と言えば、兄には二つ返事で行ってらっしゃい&お小遣い付き。

 

それが私の場合は

「女の子なんだから夜出て行くとか許しません。」

 

クラスの子、殆どが参加するのに!と返しても

「行かない子だっているでしょう?

 うちみたいに、夜遅くに出かけるのはダメって言われる子もいるでしょ?」

「よそはよそ、うちはうち」(デター)

私は、高校3年間、この先生の目を盗んでの魅惑の打ち上げというものに結局一度も参加できなかった。

 

そして、私の高校3年間は「時間との闘い」の日々だった。

兄も体育系のクラブに所属し、帰り道に仲間と一緒にファーストフード店に寄り道したりして帰宅時間は20時を過ぎる事もよくあった。

 

兄の高校は自転車で30分、私も同じく自転車で30分のところだった。

 

だが、私にだけは厳しい門限が設定された。

私も体育系のクラブに所属していた。

練習が終わるのが18時、門限は18時40分に設定され。

兄のように部活仲間と寄り道買い食いもできなかった。

 

テスト期間中はクラブ活動がない。

6時間目が終わったら即帰宅、門限は16時30分を言い渡されていた。

 

これを1分、1秒でも遅れてみろ。

鬼のような、般若の顔した母親が待っている。

 

私は、部活を終えたら全力疾走で自転車を請いで帰宅した。

テスト期間中も全力疾走で帰宅した。

 

 

兄は緩い。

なのに私には「女の子だから」という理由でガチガチの門限を強いられ。

破る事もできず、守れば怒られない、怒られたくない、だから帰る。

そりゃ私も、たまにはみんなと買い食いしたり、友達の家にだって遊びに行きたい時もあった。

そんな時は事前に、母親の機嫌の良さそうな時を狙って。

”決して私は悪い遊びをするわけではなくて、良い子の遊びをするのです”

アピールをしながら、その日だけは門限を30分遅くしてくれないか?

とお願いしたり、友人の家に遊びに行っていいか?と許可を貰っていた。

 

親に許可を貰ってから遊びに行く事が当然だと思っていた。

こんな話を人にしないから、みんなどこもそんなもんだろうと思っていた。

 

単に私は怒られたくないから、真面目に門限を守った。

単に私はいい子でいなければならない。

自分を育ててくれる、親の言う事は絶対服従だ、守れば母親は笑っている。

 

だんだんと感覚も麻痺していき。

周りは「なんでそんなに厳しいん?」と言った。

「そう?まぁなんか女の子だからとか言って厳しい。

 お兄ちゃんは緩いのに、私にはごちゃごちゃ言って来る」

周りの友人からしてみれば「変わった家だなぁ」だったのかもしれない。

だが私が「門限を守らなかったら怒られるから」と言えば。

友人も無理には誘わない。

 

私は高校3年生の半ばくらいまで、友達とマクドナルドにすら行った事がなかった。

 

そんながんじがらめの高校生活を送った。

がんじがらめだなぁという自覚はあったが、とにかく母親を怒らせて、家にいる居心地が悪くなるのが怖かった、母親を怒らせる事が怖かった。

 

だけど、母親の機嫌を取るわけでもない。

 

母親の事は、大嫌いだった。

 

毒親と毒婦 中学生の頃

兄は中学3年生。

 

私は中学1年生。

 

兄は受験を控えていた。

母親にとっても初めての「受験」である。

母親の目は兄に向いてばっかりいた。

 

そして私、といえば。

特に勉強できるわけでもなく

中学校に入って変な色気も出て来て

学校行く前にドライヤーで前髪をキメw

 

兄はちんちくりんの短い毛のくせに、毎朝ドライヤーでセットしていた。

学校では禁止されていた整髪料を使い。

ビーバップハイスクール気取り。

 

そりゃぁ2つ年下の私も、そんな悪ぶった事に憧れる年頃。

兄が使った後、ドライヤーでセットしていたら

なぜか私だけ母親に怒られた。

学校で禁止されているだの、整髪料を使うなだの。

部屋に隠し持っていたケープ()を何度無言で捨てられたかw

 

兄は、そんなチャラい部分は持ちながらも勉強もまぁまぁできる子だった。

兄は受験を見事突破し、第一志望の有名校に入学を決めた。

 

兄は母親にべたべたに褒められ。

さすがお兄ちゃん!とそれはそれはお祭り騒ぎでお祝いされた。

 

さて、妹の私のひがみですが。

「その点、毒婦はチャラチャラして」

「髪の毛の事ばっかり気にして」

「成績も悪いし」

そう言われていた。

 

思春期反抗期もあって、うるせぇババァ!と思っていた。

本当に母親が嫌いで嫌いで仕方がない時期が到来した。

 

私は常に「お兄ちゃんばっかり」と思っていた。

でも、兄が悪いわけではない。

兄のパン事件、頭ぶんぶんの事も私は忘れていなかった。

兄は弱いところがあるから母はああやって兄に優しくしているんだ。

そう頭でわかっていながらも、やはり極端に私に対する態度との違いに

母を好きになれなかった。

 

大嫌いだった。

 

中学3年になる前、親と担任の先生と私での三者面談があった。

あの時、担任は私の成績表を見て言った。

「いやぁ〜この成績やったら、○○女子を専願で行くしかないですね。

他に道はありません。これ以上成績が下がったら行くところないですね。」

そのまま無言の帰宅だ。

 

変わって父親だが。

父親は育児に干渉しないだけだったのか、なんだったのかは不明だが。

「毒婦のやりたいようにやりなさい」と言ってくれる父親だった。

それまでも、母親のように父親に怒鳴り散らされたり、暴力を振るわれる事などなかった。

高校受験も、特に口出しする事はなく。

「まぁ高校くらいは卒業しておいた方がいいんちゃうか?」てなもんだった。

 

母は違った。

「あんたこのままでどうすんの?バカなの?」

「お兄ちゃんはあんないい高校行ってんのに、あんたどうすんの?」

 

まぁでも私もその一言に頭に来て。

中学3年生の1年間は悔しくて血の汗をかくほど勉強に明け暮れた。

1年間必死で成績を上げた。

兄と同等クラスの高校を受験し、見事合格してやった。

 

中学2年までどっからどう見てもデブだった私の体重は。

卒業する頃には半分くらいのサイズになっていた。

故意に痩せようとしたのではない。

私には私なりのストレスがあったのだろう。

食べたくなくなった時期があって、とにかく毎日吐き気との戦いだった。

 

辛い、しんどい、吐きそう。

 

そう言っても、母は私に「甘えだ」と言った。

 

必死の思いで勉強をし。

志望校に合格できた。

 

だがそれを兄の時のようには喜んでもらえなかったように思う。

 

お兄ちゃんにできたんだからあんたにできて当然、みたいな。

 

 

特に、将来何になりたい夢があるからその高校に入ったわけでもなく。

とにかく当時の私は、兄のようにいい高校に入れば…

 

そうどこかで思っていたのかもしれない。

 

「いい子でいなければならない」

 

だんだんと、私の中で

「いい子にしれいれば、きっと褒めてもらえる。」

「認めてもらえる」

と思っていたのだろう。

 

だが、そう簡単に私を褒めてくれ、認めてくれる場面など

期待したとて現実は厳しかった。

 

 

毒親と毒婦 小学生の頃(2)

兄は学校に行く時、母親が手作りで作った小さな長方形の巾着を持って行くようになった。

 

無理にパンを食べずに、食べられない分は持ち帰る。

 

先生との話し合いでそう決まったのか、兄はパンを持ち帰るようになった。

 

 

その頃からだろうか。

 

 

母は兄に対してものすごく優しくなった。

 

父親も兄が食べない事で怒る事もなくなった。

時々「怒られないからといって調子に乗るな」くらいは言っていたが。

食べない事で怒られる事はほぼなくなった。

 

兄も高学年になっていくにつれ、身長が低い事を気にしてか

よく食べるようになった。

 

気がつけば、兄のチックと呼ばれた頭ぶんぶんもなくなっていた。

 

母親が注ぐ兄への愛情も形を変えて行った。

 

 

徐々に私は「なんでお兄ちゃんばっかり」と思う事が増えて来た。

 

逆に、食い意地のはった私がいつまでもおかわりして食べ放題していると

「いつまで食べるの?」

「まーだ食べてんの?」と言われる。

 

だんだんと、母親の何かに向ける矛先が。

自分に向いて来ているように感じた。

 

そして「お兄ちゃんばっかりせこい」

 

理不尽に思う事が徐々に増え。

 

「お兄ちゃんなんだから!」と兄が怒られていた事が

「お兄ちゃんなんだから」と兄を優先する事が増えていった。

 

これが、兄が中学生になり。

私が後を追って中学生になってからますます増えて行った。